Particle.

Part of the art of my article sparkles in particle.

平民ルンバ

もー毎日、めちゃんこしねしねしねーっていいながら仕事してるよ!ほんとまじでしねしねーって!

 

あのね、わかったよ!おれら平民はブルジョワジーたちのチェスの駒なんておしゃれなもんじゃないよ!あいつらのルンバなの!ルンバ!明日客が来るから掃除しよっと、っていって電源入れられたルンバ!

 

ブルジョワジーがワイン飲みながら夕飯食ってる頃、ルンバはせっせと掃除だよ!でもねあいつらは知ったこっちゃねーんだぜ!なぜなら、べつに明日、客来るなんて決まっちゃいねーんだぜ!来るかもー?来ないかもー?っていってるやつらのこれまたふざけたブルジョワジー友達が、もし、万が一来たら、「わっこいつの家きったね、マジか」って言われちゃう、そーやってプライド傷付けられるのに耐えられないから、「念の為」電源入れられる、それがおれらルンバだぜ!!

 

でもさ知ってる?おれらルンバがなんのために生まれたか知ってる?ブルジョワジーを喜ばすため?買ってくれたことに報いるため?ちげーよアホ!ただただ「綺麗にしたい」んだよ!おれら生みの親がさ、「世界を綺麗にしておいで」って、大いなる希望と夢を持って生みはなってくれたの!だからおれらには世界を綺麗にする意志があんの!でもその意志は、べつにあいつらのプライドを満たすために使ってねーの!自分の!自分自身の「ああ今日も綺麗にできたなあ」って、満足感!ただそんだけ!おれらからただそれだけ奪わないでいてくれたら!!!

 

だけど毎日

「最初からゴミなんてなかったけどやっぱりこれ以上綺麗にできなかった」

「あそこにまだあんなにゴミあったのに電源切られて綺麗にできなかった」

「ああ今日もバッテリー切れでろくに綺麗にできなかった」

「純正じゃない変な充電器すこしも充電できなくて綺麗にできなかった」

「おかしいな故障かな…綺麗にできなかった」

「綺麗にできなかった」

「綺麗にできなかった」

 

 

 

そうやって満足感を失ってったおれらは、だんだん壊れてくの。わかる?壊れてく、その感じ。そういうとき、どういう音がするかわかる?

 

しね!

しねしねしねしね!!!

だよ。

 

それべつにブルジョワジーのあいつらに言ってんじゃねーの。存在価値わかんなくなってきた自分自身に言ってんの。綺麗にしたいとこ綺麗にできなくなって壊れてきてもはや生きてて意味あんのかなって思う、そういう自分に向かって言ってんの。

 

しね!!!!!

しねしねしねしね!!!!!!

って。

 

 

 

 

だけどあいつらブルジョワジーは絶対気付かない。あらいやだこのルンバ私に向かって暴言吐き出した、と怖がるけどそれが悲しい自傷行為だなんてまさか思いもしない。そんでおれら全員腐った使えねえ機械だと思ってる。だからただただ片っ端から新しいモデルに買い換えるだけ。そんでまた、新しい犠牲ルンバが生まれる。その繰り返し。

 

 

 

 

 

 

 

 

さあ、悲しいのは誰だと思う?

 

おれは、あいつらの方だと思うね。

暗黒かがっかりか、決めるのは私達だ

どっちもたしかに好きじゃない発言だけど、それに対する反応の方が驚く。

 

安倍首相「民主党暗黒時代」→撤回しろ!総理にふさわしくない!

桜田大臣「池江璃花子さんがっかり」→撤回しろ!辞任しろ!

 

私、基本自民党あんま好きじゃない自覚あるほうの人だけど、反論のほうがひどすぎて驚く。その反論してる間に他の仕事してよ。

 

撤回しろ、って言ったかて、もう言ったもんは言ってんし、撤回ってのがありうるとして、それは世間の反応見てまずいこと言ったって思ったら「本人が」撤回させてって懇願するもんであって誰かがさせるもんじゃなくね。撤回しろっていうあんたのそのパフォーマンスは何、私は国民の味方だ、弱いもんの代弁者だ、とでも思ってるん、少なくとも私は撤回しろなんて思ってませんけど(繰り返すけど撤回なんてできないし意味がないし、池江璃花子さんの件に関しては、本人が怒ってるわけでもないのに外野が勝手に彼女の代弁するのはおかしくね)。有権者がニュース見て「あー、この人そゆ人ね、私は嫌い(好き)」って思うだけで十分で、「ふさわしくない」かも「辞任すべき」かも次の選挙で国民が決めんじゃないの。代弁者ぶったあんたに池江璃花子さんの気持ちも国民の気持ちもひいては発言者の進退も決める権限はない、勘違いすんな。

 

こういう勘違い野郎が「ポリティカリーコレクトはこれね、これから逸れたら村八分ね」キャンペーンを繰り広げる。そういう奴等ばかり取り上げるニュースも、それを支持するコメンテーターもそれを助長し、首相も大臣も別に意見くらい言ったっていいなんて誰も言わない。そういう日本の空気を読んで育つ大人も子供も、ああこういう意見ってハブられるのね了解やめとこってなる。そうしてめでたく寛容さ指数底辺日本ここにあり。村八分キャンペーンめでたく帰結。

 

 

とにかくいいたいのは、

民主党が暗黒だったかどうかも、

池江璃花子さんががっかりかどうかも、

決めるのはニュースを見てる私達一人一人だ。

それを考えさせる意見自体に、正しく対峙するんじゃなく、責めたり撤回させようとしたりする行為は、完全に勘違いだし、多様性と寛容さ、というかキャパ、の欠片もないと思う。あちこちで意見が「攻められ」るのではなく、「責められ」てばかりだ。

そういう日本がほんとに嫌い。

ザ・モラトリアム

人間は、どんな意味を持って、生まれて、そして死んでゆくのか?


大学2年生くらいの頃、何をするにもそんな想いが邪魔する時があった。

勉強するにしたって、死んでしまうなら何になる?これから卒業して、いい企業に就職したって、死んでしまうなら何になる?私の存在価値は、死んでしまったその時にすべてなくなってしまうとしたら、私は何のために今、生きているのだろう?

 

当時一人暮らしをしていた家の近くに古本屋があって、そこで哲学関連書籍を探しては、そのヒントを探ろうと必死だった。

だけどどんな偉い人の本も、私の悩みは解決してくれなかった。魂や業(わざ)など、死んでも残ると言われる高尚なものを信じるほど私は賢くなかった。私が残しかったのは、もっともっと泥臭い「私」の証拠だ。だけどそんなものどこにも書いてないのだ。つまり偉い人も含め人はみんな、「人は生まれて、死ぬ。ただそれだけなんだ」と悟れるほど賢くて大人な生き物なんだ。ただそれだけを、私は悟った。

 

でもそれでそうか、と思える大人では私はなかった。何とかして意味を見出さないと、明日にだって学校をサボったっていいことになるし、就職活動だって何らやる意味がないじゃないか。そんな駄々っ子のようなことを考えて、毎日を過ごしていた。

 


そんな私が、腹落ちする「生きる目的」を見つけた場所は結局、外の世界ではなく、自分の脳みその中だった。

 


ある夏の日、祖父が亡くなり、葬式に参加するために大阪へ向かった。


祖父が倒れてからずっと看病をしていた両親はすでにだいぶ前から大阪におり、新幹線は一人だった。まだちゃんとした喪服も持っておらず、常識はずれな大学生だった私は、普段も着られるやつがいいや、などと現金なことを思いながら、降りた駅の駅ビルで黒いコットンのノースリーブシャツとタイトスカートを買って、葬式会場へ向かい、会場でその喪服もどきに着替えて、葬式に参列した。

 


いつも豪快で明るく、グルメな祖父だった。祖父は一人孫だった私を大変かわいがってくれ、折に触れ様々なプレゼントを買ってくれた。「かまへん、かまへん」が口癖で、文字の通りに「わっはっは」と笑った。


そんな祖父の遺体。私の記憶に残る限り、生まれて初めて人の遺体をまじまじと見たのがそのときだ。

それはあまりにも、私の知る祖父とは違っていた。蝋人形館の人形のようで、まるで生きていたとは思えない。豪快さのかけらもなく、とにかくそこに在ったのは、「物体」でしかなかった。涙の一粒も流れてこなかった。


その「物体」は、あっけなく焼却炉に入れられ、あとかたもなく骨と灰と化した。母とその妹が、その骨をうやうやしくつまみあげ骨壷に入れているのは、ままごとのようななんとも滑稽な光景に見えた。

 

その時私はその灰を、骨を、「物体」でない何者かに還元したい衝動に駆られた。豪快だった祖父が、小さな骨壺なんかに止まっていたいと思えなかった。なんとかして外に出してやるんだ。植物の根にでも撒けば、肥やしの少しにでもなるんじゃないのか。

だけどもちろんそんなことができるはずもなく、黒いだけのノースリーブシャツとタイトスカート姿の私は、ただただ箸でつままれるだけの小さな白い塊を見ていることしかできなかった。

 

もし私が死んでも、あんな最後は嫌だ。酸素を無駄遣いして骨になったかと思ったら、残ったモノさえ、一部は捨てられ、救い出されたと思ったら何の役にも立たないただの「物体」として壺の中なんかにいつまでも埃を被ってただ在るだけ。そんなものに何の価値があるのか。

 


人間は、どんな意味を持って、生まれて、そして死んでゆくのか?

 


私は、祖父のあの小さな白い塊を前に、私なりの答えを出さなければならなかった。

 

 

 

“私という「個体」の形にこだわるかぎり、私には何の意味もない。なぜなら最期に残されるその「個体」は、生物が形づくる循環の輪の外にいて、ただただ無であるに等しいからだ。重要なのは、「個体」という形を無くしたときに何者になれるか、何者の「命」に形を変えられるか、なのではないか。

 

だから私の遺灰と骨は、かならず木の根元に撒いて欲しい。

いやその前に、私を燃やさないで欲しい。使える臓器は全て移植して、残った肉ごとすべて、人肉を好むなにかの動物の餌にでもして欲しい。

そして私は必ず子供を産む。祖父母から、父母から、もっともっと先の祖先から、ずっと繋がれて来た命を、このまま私の身体という物体を通過させて、ただ繋げて、繋げて、繋げていくだけなんだ。


私の生きる意味のほとんどは、そうすることでしか、きっと生まれない。”

 

 

そんな身勝手な答えと一緒に、私は東京行きの新幹線に乗った。

 

 

 

思えばあのときこの世から消えた祖父は、確実に私の身体の中に、まあるい透明なかたちに変わって、ぽくりと残った。

個体が無形のかたちになることの価値を認められたら、人生は多分もう少し楽なんだろう。それは分かっているのに、いまだに私はあのときの私をかかえたまま、「考えないようにする」という術だけ上達させて生きている。

「考え」は選びさえすれば一生自分の味方だ。

※これは これは水です の感想です。まだの方はぜひ読んでみてください。

 

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そうか「考えは選ぶことができると目を覚ます」のが学問なんだ、まじ目から鱗(「リベラルアーツ」「アクティブラーニング」「フィロソフィー」てなんやねんなわけわからん。格好つけすぎて本質見失うっていう、勉強してきたくせになんも考えないやつがよくやる格好悪いやつちゃうん。頭良くなりすぎるとこうやって見失いまくるから得てして世の先生とかエラい人とかからは結局全然教わることというか「響く」ことがなくて、こういう素晴らしい文章に出会うのにフツーの人の翻訳とフツーの人の「いいね!」を何とかたぐりよせて結局13年もかかってしまうんちゃうん。)

 

そう、私たちは考えを選べる。選べるのに、デフォルト設定のせいで選ぶことを忘れる。

例えば、「やりたくない仕事はやらない」でいいなんて、当たり前だけどだれも教えてはくれない。でもそういう選択肢があってもいいと私は「考え」たし、その自由がある。「考え」なければ、私は多分、毎日のクソみたいな業務を友達に愚痴って、そのくせミスって無駄に落ち込んで、帰りの電車でうっすら涙して一日を終えるんだろう。でもそうだそれはただのデフォルト設定なだけで、目を覚まして「考え」れば、そーじゃんそもそもそんな仕事やんなきゃよかったんじゃん。だって例えこれ完璧にやったとしたってお金持ちのあの人やあの会社が喜んで終わりで、飢餓や虐待に苦しむ子供や殺処分手前の犬猫の一人一匹も救えやしねーじゃんあー意味ねえ。そして今はインターネットのおかげで、たくさんの人がそういう考えに共感したり疑問に思ったりフィードバックをくれたりする場所がある。そしてそれを見てまた私の考えも変わる。これはもう立派な学問だ。私の小さな脳ミソを世界に駄々漏れさせて、誰かの脳ミソと、合わせミソ作り続ける学問という試みなんだ。そして学問に終わりはなくて、ミソは一生、永遠に合わさって熟成し続けてくんだ。そうしてればこんなクソみたいな生活続けてたっていつかムスカして自分を絶つ日なんて一生訪れないんだ。大丈夫大丈夫大丈夫私。研ぎ澄ませ目を覚ませ考えろ考えろ考えろ私。私私私私ぃぃぃぃ!!

 

 

 

 

…と、いう、「逃げて大丈夫私」という確証を得る盛大なる私の自我あるいはムスカって言いたいだけのために他者のためのこの美しい文章を消費するというなんともとっちらかった矛盾でジエンド。だがそれもまた良しなのである。

わたしがそう「考え」る以上、私は無敵なのだ。

 

やりたくない仕事はやらない、が結果正しい。

得意なことは、時間かけなくてもそこそこ完璧にできるが、

不得意なことは、時間かけてもミスしたりする。

 

 

そして、私の得意なことは、必ず誰かの不得意なことで、

私の不得意なことは、必ず誰かの得意なことだ。

 

 

だからどんなときも、

「今ある人員でなんとかしようとするから間違ってる」。

 

 

みんな不得意なら、人をつれてこなきゃいけない。

人をつれてくることができない(お金がない)なら、そもそも実行すべきじゃない。

ましてやそれがプロトタイプの段階でなく、完璧に、最高の、アウトプットを求めるのなら。(「完璧」も「最高」も、実際にあるかどうかは別の話)

 

 

 

 

少しでも不得意なことは全部洗いだし、

それができる人を視野広く世界中から探しだし、

今はプロトタイピングの段階だと常に認識してもらいながらプロトタイプ作り続けよう、

最終的な完成品を作るのは、これ以上ないと思えるメンバーが揃ったらにしよう(「これ以上ない」が実際にあるかどうかは別の話) 、

そういう人が呼べるようになる(お金ができる)までプロトタイプ作り続けよう。

※だから「Always  in Beta」っていうニューバランスのキャッチコピーが秀逸。結局一生「完成」なんてなく、誰でも人生そのものがプロトタイプなんやと思う。

 

 

なんでも自分で「完璧に」やろうと思ってしまうかもしれない将来の自分のために真面目にメモしとく。

さよなら仙ちゃん

仙ちゃんが亡くなった。

 

 

私は仙ちゃんの娘でもおかしくない歳だと思うけど、大学の頃から仙ちゃんのことが大好きで、許されるなら付き合いたい人のうちの一人だった。

 

 

何がそんなに好きだったか、亡くなってからたくさん考えてみた。

そしてわかった。仙ちゃんは私にとって、「失われてく昭和男」の象徴だったんだなと。

 

 

 

ベッキーが、不倫のみそぎだってキック食らったのが大問題になる今。

#metooって反パワハラの社会現象が起きる今。

仙ちゃんの中日、阪神時代の鉄拳教育なんて絶対受け入れられないんだろう。

若い女の子がテレビで、仙ちゃんが怒って人やものをぶん殴るVTR を見て「私たちの世代ではこれはちょっと怖いなって思ってしまうんですけれどもー(笑)」などと言っていた。

 

 

 

違うんだよ、と私は思った。

昭和には、こんな美学もあったんだよ。

「怖いけど、尊敬してるし、大好きだ」という不思議な人が存在したんだよ。

愛情がなければ、あんなに本気で怒れない、というパラドックスを理解できる風土があったんだよ。

それが、父性の象徴であり、かっこいい男のひとつの形だったんだよ。

 

 

 

かくいう私自身、今も昔もへなちょこ人間で。

怒られるのは怖いし、怒られるとすぐ凹んで立ち直れない。だから、人にもそんなに怒れない。怖くしない。

だけど、ことその相手を愛しているとき、私はそれを逃げだと感じていた。愛する人との真っ正面からの付き合いを避けて自分も相手も騙している気持ちをいつもぬぐえなかった。

そんな弱さとずるさを私は昔自分勝手に「女性」に仕分けていて、「男性」にはその逆を求めた。

恐れない。自力で立ち上がる。人にも怒るし、怖い。ただ、その怖さは、何からも逃げずに、真っ向から人と向き合う結果で。相手を本気で見て、本気で愛してるから、怒る。もちろんときに、とびきりの本気の愛情表現も、交えて。

そういう人に憧れた。

 

 

 

仙ちゃんはまさに私にとってそういう「男性」のロールモデルで。

追悼番組で元中日、阪神の選手たちが「こてんぱんに殴られた」というエピソードとともに「だけど、男も惚れる男だった」と表現をしているのを見ていて、ああそうだと思った。私はまっすぐな仙ちゃんが好きで、そしてその仙ちゃんからも逃げずに、惚れると言えるような男性たちが、彼らの本気同士の生き方が、羨ましかったんだなあと。

 

 

 

そういう時代が紛れもなくあった。

今は良くも悪くも間違いなく違う。もしかしたら、私も変わった。優しい人が好きだし、優しい人ばかりに囲まれて生きてる。

 

 

 

 

だけど仙ちゃん、あなたが死んでしまって悲しいし、私はやっぱり、あなたが今も大好きだなあって思います。

いつまでも、あなたみたいな人もやっぱり素敵だよねって言える世界であってほしい。

自分の子供を「息子氏」「ベビたん」と呼ぶやつとは絶対仲良くなれない。

Facebookでやたら見かける「息子氏」に腹が立って仕方ない。

身内に尊敬の「氏」つけるとかありえんでしょ?「父氏」て言うんか?お前は?
さらには息子の「たん」づけ。「あたし、言えないけど息子をアイドル並みに溺愛してます!」に聞こえるんだけど、正解?ひいては「ベビたん」てなに?絶対バックにこっそり子供の名前書いた蛍光ウチワ持ってるよね?

いや、いい。そう呼んでくれてもいっこうにかまわない。
けど、きっとあなたと仲良くはなれない。仲良くなりたくはない。少なくとも私の語感センサーが勝手にそう受け取ってしまう。

同様に嫁、妻を「奥さん」と呼ぶ男も、
夫を「オット氏」と呼ぶ女も嫌いだ。
正しくないからだ。正しい由緒ある日本語をねじまげてでも自分はこの人に対してこんな絶妙な愛すべき感覚だみたいなどうでもいい自己顕示欲丸出しの自己主張をこっそりしてくるその一瞬の単語選びがマジでセンスなくて嫌いだ。

先祖代々てめえのその薄っぺらい感覚で言い表された程度の愛情なんぞとっくのとうにどの人類もそれはそれは美しい形容詞で言い表して来てるに違いないのだよ。
そんなにだだもれたいほどの愛情と尊敬を身内に示したいならせめて正しい呼称に麗しい形容詞を添えて頂ければいい。たとえば

愛すべき息子
敬愛する妻
大好きな夫

でいい。
謙遜してんだか尊敬してんだか寵愛してんだかわけわからんごちゃまぜな正しくない日本語で愛情をだだもれさせようとするめんどくさい遠回しなノロケほどダサいもんはない。とにかくダサくてキモいのだ。嫌いだ。嫌いなのだ。



勝手に想像するに、あの気持ち悪い呼称が蔓延してしまった現象は日本人が愛情を表現する能力が極めて低いからだと思う。
ガイジンなんて平気で
My loving son
My dear wife
My beloved husband
とか、愛する、愛する、愛するってもう普通に空気を吸うように言ってしまう。
それに比べて日本人は愛する、大好きな、などとはおいそれと言えない文化をはぐくんできたがゆえに、
(いやそれ自体は奥ゆかしさという素晴らしい文化なのだが、その反面、)
あいつらのように。正しい謙譲の呼称にひっそりと「愛」を潜ませるやつらがうじゃうじゃ出て来てしまったのだと思う。


 


いやいやいやいや
あなたのその愛情表現奥ゆかしさのレベル越えてっから!
見せブラはエロいけど、あんたのやつはワカメちゃんのはみ出しパンツくらい見え見えでダサいから!
あー例えが奥ゆかしくなくてごめんね!!!





とにかく、私は嫌いです。
いつも投稿、うえっ。て思ってみてます。