Particle.

Part of the art of my article sparkles in particle.

ザ・モラトリアム

人間は、どんな意味を持って、生まれて、そして死んでゆくのか?


大学2年生くらいの頃、何をするにもそんな想いが邪魔する時があった。

勉強するにしたって、死んでしまうなら何になる?これから卒業して、いい企業に就職したって、死んでしまうなら何になる?私の存在価値は、死んでしまったその時にすべてなくなってしまうとしたら、私は何のために今、生きているのだろう?

 

当時一人暮らしをしていた家の近くに古本屋があって、そこで哲学関連書籍を探しては、そのヒントを探ろうと必死だった。

だけどどんな偉い人の本も、私の悩みは解決してくれなかった。魂や業(わざ)など、死んでも残ると言われる高尚なものを信じるほど私は賢くなかった。私が残しかったのは、もっともっと泥臭い「私」の証拠だ。だけどそんなものどこにも書いてないのだ。つまり偉い人も含め人はみんな、「人は生まれて、死ぬ。ただそれだけなんだ」と悟れるほど賢くて大人な生き物なんだ。ただそれだけを、私は悟った。

 

でもそれでそうか、と思える大人では私はなかった。何とかして意味を見出さないと、明日にだって学校をサボったっていいことになるし、就職活動だって何らやる意味がないじゃないか。そんな駄々っ子のようなことを考えて、毎日を過ごしていた。

 


そんな私が、腹落ちする「生きる目的」を見つけた場所は結局、外の世界ではなく、自分の脳みその中だった。

 


ある夏の日、祖父が亡くなり、葬式に参加するために大阪へ向かった。


祖父が倒れてからずっと看病をしていた両親はすでにだいぶ前から大阪におり、新幹線は一人だった。まだちゃんとした喪服も持っておらず、常識はずれな大学生だった私は、普段も着られるやつがいいや、などと現金なことを思いながら、降りた駅の駅ビルで黒いコットンのノースリーブシャツとタイトスカートを買って、葬式会場へ向かい、会場でその喪服もどきに着替えて、葬式に参列した。

 


いつも豪快で明るく、グルメな祖父だった。祖父は一人孫だった私を大変かわいがってくれ、折に触れ様々なプレゼントを買ってくれた。「かまへん、かまへん」が口癖で、文字の通りに「わっはっは」と笑った。


そんな祖父の遺体。私の記憶に残る限り、生まれて初めて人の遺体をまじまじと見たのがそのときだ。

それはあまりにも、私の知る祖父とは違っていた。蝋人形館の人形のようで、まるで生きていたとは思えない。豪快さのかけらもなく、とにかくそこに在ったのは、「物体」でしかなかった。涙の一粒も流れてこなかった。


その「物体」は、あっけなく焼却炉に入れられ、あとかたもなく骨と灰と化した。母とその妹が、その骨をうやうやしくつまみあげ骨壷に入れているのは、ままごとのようななんとも滑稽な光景に見えた。

 

その時私はその灰を、骨を、「物体」でない何者かに還元したい衝動に駆られた。豪快だった祖父が、小さな骨壺なんかに止まっていたいと思えなかった。なんとかして外に出してやるんだ。植物の根にでも撒けば、肥やしの少しにでもなるんじゃないのか。

だけどもちろんそんなことができるはずもなく、黒いだけのノースリーブシャツとタイトスカート姿の私は、ただただ箸でつままれるだけの小さな白い塊を見ていることしかできなかった。

 

もし私が死んでも、あんな最後は嫌だ。酸素を無駄遣いして骨になったかと思ったら、残ったモノさえ、一部は捨てられ、救い出されたと思ったら何の役にも立たないただの「物体」として壺の中なんかにいつまでも埃を被ってただ在るだけ。そんなものに何の価値があるのか。

 


人間は、どんな意味を持って、生まれて、そして死んでゆくのか?

 


私は、祖父のあの小さな白い塊を前に、私なりの答えを出さなければならなかった。

 

 

 

“私という「個体」の形にこだわるかぎり、私には何の意味もない。なぜなら最期に残されるその「個体」は、生物が形づくる循環の輪の外にいて、ただただ無であるに等しいからだ。重要なのは、「個体」という形を無くしたときに何者になれるか、何者の「命」に形を変えられるか、なのではないか。

 

だから私の遺灰と骨は、かならず木の根元に撒いて欲しい。

いやその前に、私を燃やさないで欲しい。使える臓器は全て移植して、残った肉ごとすべて、人肉を好むなにかの動物の餌にでもして欲しい。

そして私は必ず子供を産む。祖父母から、父母から、もっともっと先の祖先から、ずっと繋がれて来た命を、このまま私の身体という物体を通過させて、ただ繋げて、繋げて、繋げていくだけなんだ。


私の生きる意味のほとんどは、そうすることでしか、きっと生まれない。”

 

 

そんな身勝手な答えと一緒に、私は東京行きの新幹線に乗った。

 

 

 

思えばあのときこの世から消えた祖父は、確実に私の身体の中に、まあるい透明なかたちに変わって、ぽくりと残った。

個体が無形のかたちになることの価値を認められたら、人生は多分もう少し楽なんだろう。それは分かっているのに、いまだに私はあのときの私をかかえたまま、「考えないようにする」という術だけ上達させて生きている。

「考え」は選びさえすれば一生自分の味方だ。

※これは これは水です の感想です。まだの方はぜひ読んでみてください。

 

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そうか「考えは選ぶことができると目を覚ます」のが学問なんだ、まじ目から鱗(「リベラルアーツ」「アクティブラーニング」「フィロソフィー」てなんやねんなわけわからん。格好つけすぎて本質見失うっていう、勉強してきたくせになんも考えないやつがよくやる格好悪いやつちゃうん。頭良くなりすぎるとこうやって見失いまくるから得てして世の先生とかエラい人とかからは結局全然教わることというか「響く」ことがなくて、こういう素晴らしい文章に出会うのにフツーの人の翻訳とフツーの人の「いいね!」を何とかたぐりよせて結局13年もかかってしまうんちゃうん。)

 

そう、私たちは考えを選べる。選べるのに、デフォルト設定のせいで選ぶことを忘れる。

例えば、「やりたくない仕事はやらない」でいいなんて、当たり前だけどだれも教えてはくれない。でもそういう選択肢があってもいいと私は「考え」たし、その自由がある。「考え」なければ、私は多分、毎日のクソみたいな業務を友達に愚痴って、そのくせミスって無駄に落ち込んで、帰りの電車でうっすら涙して一日を終えるんだろう。でもそうだそれはただのデフォルト設定なだけで、目を覚まして「考え」れば、そーじゃんそもそもそんな仕事やんなきゃよかったんじゃん。だって例えこれ完璧にやったとしたってお金持ちのあの人やあの会社が喜んで終わりで、飢餓や虐待に苦しむ子供や殺処分手前の犬猫の一人一匹も救えやしねーじゃんあー意味ねえ。そして今はインターネットのおかげで、たくさんの人がそういう考えに共感したり疑問に思ったりフィードバックをくれたりする場所がある。そしてそれを見てまた私の考えも変わる。これはもう立派な学問だ。私の小さな脳ミソを世界に駄々漏れさせて、誰かの脳ミソと、合わせミソ作り続ける学問という試みなんだ。そして学問に終わりはなくて、ミソは一生、永遠に合わさって熟成し続けてくんだ。そうしてればこんなクソみたいな生活続けてたっていつかムスカして自分を絶つ日なんて一生訪れないんだ。大丈夫大丈夫大丈夫私。研ぎ澄ませ目を覚ませ考えろ考えろ考えろ私。私私私私ぃぃぃぃ!!

 

 

 

 

…と、いう、「逃げて大丈夫私」という確証を得る盛大なる私の自我あるいはムスカって言いたいだけのために他者のためのこの美しい文章を消費するというなんともとっちらかった矛盾でジエンド。だがそれもまた良しなのである。

わたしがそう「考え」る以上、私は無敵なのだ。

 

やりたくない仕事はやらない、が結果正しい。

得意なことは、時間かけなくてもそこそこ完璧にできるが、

不得意なことは、時間かけてもミスしたりする。

 

 

そして、私の得意なことは、必ず誰かの不得意なことで、

私の不得意なことは、必ず誰かの得意なことだ。

 

 

だからどんなときも、

「今ある人員でなんとかしようとするから間違ってる」。

 

 

みんな不得意なら、人をつれてこなきゃいけない。

人をつれてくることができない(お金がない)なら、そもそも実行すべきじゃない。

ましてやそれがプロトタイプの段階でなく、完璧に、最高の、アウトプットを求めるのなら。(「完璧」も「最高」も、実際にあるかどうかは別の話)

 

 

 

 

少しでも不得意なことは全部洗いだし、

それができる人を視野広く世界中から探しだし、

今はプロトタイピングの段階だと常に認識してもらいながらプロトタイプ作り続けよう、

最終的な完成品を作るのは、これ以上ないと思えるメンバーが揃ったらにしよう(「これ以上ない」が実際にあるかどうかは別の話) 、

そういう人が呼べるようになる(お金ができる)までプロトタイプ作り続けよう。

※だから「Always  in Beta」っていうニューバランスのキャッチコピーが秀逸。結局一生「完成」なんてなく、誰でも人生そのものがプロトタイプなんやと思う。

 

 

なんでも自分で「完璧に」やろうと思ってしまうかもしれない将来の自分のために真面目にメモしとく。

さよなら仙ちゃん

仙ちゃんが亡くなった。

 

 

私は仙ちゃんの娘でもおかしくない歳だと思うけど、大学の頃から仙ちゃんのことが大好きで、許されるなら付き合いたい人のうちの一人だった。

 

 

何がそんなに好きだったか、亡くなってからたくさん考えてみた。

そしてわかった。仙ちゃんは私にとって、「失われてく昭和男」の象徴だったんだなと。

 

 

 

ベッキーが、不倫のみそぎだってキック食らったのが大問題になる今。

#metooって反パワハラの社会現象が起きる今。

仙ちゃんの中日、阪神時代の鉄拳教育なんて絶対受け入れられないんだろう。

若い女の子がテレビで、仙ちゃんが怒って人やものをぶん殴るVTR を見て「私たちの世代ではこれはちょっと怖いなって思ってしまうんですけれどもー(笑)」などと言っていた。

 

 

 

違うんだよ、と私は思った。

昭和には、こんな美学もあったんだよ。

「怖いけど、尊敬してるし、大好きだ」という不思議な人が存在したんだよ。

愛情がなければ、あんなに本気で怒れない、というパラドックスを理解できる風土があったんだよ。

それが、父性の象徴であり、かっこいい男のひとつの形だったんだよ。

 

 

 

かくいう私自身、今も昔もへなちょこ人間で。

怒られるのは怖いし、怒られるとすぐ凹んで立ち直れない。だから、人にもそんなに怒れない。怖くしない。

だけど、ことその相手を愛しているとき、私はそれを逃げだと感じていた。愛する人との真っ正面からの付き合いを避けて自分も相手も騙している気持ちをいつもぬぐえなかった。

そんな弱さとずるさを私は昔自分勝手に「女性」に仕分けていて、「男性」にはその逆を求めた。

恐れない。自力で立ち上がる。人にも怒るし、怖い。ただ、その怖さは、何からも逃げずに、真っ向から人と向き合う結果で。相手を本気で見て、本気で愛してるから、怒る。もちろんときに、とびきりの本気の愛情表現も、交えて。

そういう人に憧れた。

 

 

 

仙ちゃんはまさに私にとってそういう「男性」のロールモデルで。

追悼番組で元中日、阪神の選手たちが「こてんぱんに殴られた」というエピソードとともに「だけど、男も惚れる男だった」と表現をしているのを見ていて、ああそうだと思った。私はまっすぐな仙ちゃんが好きで、そしてその仙ちゃんからも逃げずに、惚れると言えるような男性たちが、彼らの本気同士の生き方が、羨ましかったんだなあと。

 

 

 

そういう時代が紛れもなくあった。

今は良くも悪くも間違いなく違う。もしかしたら、私も変わった。優しい人が好きだし、優しい人ばかりに囲まれて生きてる。

 

 

 

 

だけど仙ちゃん、あなたが死んでしまって悲しいし、私はやっぱり、あなたが今も大好きだなあって思います。

いつまでも、あなたみたいな人もやっぱり素敵だよねって言える世界であってほしい。

長谷川豊の理論の延長で、日本でもたぶんテロとか起こる。

www.j-cast.com

 

これみて、ああ、長谷川さんこそ、「ありのままのシャルリー」族だなあと思った。

 

joshi.hateblo.jp

 

「議論になるなら、何を言ってもいい。少しくらいの喧嘩の売り飛ばしも上等。」

という理論は、性善説に基づきすぎている。人間はそんなに神さまじゃないし、傷つきやすい。

人だっている。

 

 

「著者の真意をちゃんと読み取れない方が悪い」という態度ほど無責任なものはない。

言葉はさして万人共通、万能ではないし、言葉の繊細さとシニフィエの絶妙な個体差はたぶん彼の想像以上だ。

と、思う人だっている。

 

 

この「人だっている」の、想定の範囲が彼らは狭すぎる。

端的にいえば「多様性」をみくびりすぎている、ということなんだと思うが、

 「誰もがみんな、自分の言うことを正しく理解し読み解き、議論のテーブルに正座してついてくれる」

ほど、いまの世の中は未熟じゃないし、一元的でもない。

成熟して混濁した文化文明にあって、彼の「読み取れない方がおかしい」理論はすごく時代遅れで回顧主義的に見える。もうそんな時代はとうに終わってる。

と思う人だっている。

 

 

絵だって文章だって一緒。

長谷川さんとシャルリーエブドは一緒。

「これは私のことだ」と少しでも感じてしまった人たちにむけて、銃口を向けている、という視点で一緒。

長谷川さんの持論は「ぼくの弾はビービー弾だ」と言っているようなもの。問題は、それが実弾かビービー弾かではない。中身がわからないままの銃口を向けられる恐怖は、「その銃から花がでて安堵の笑顔が咲く手品」でないかぎり、誰も味わうべきではない。

と思う人だっている。

 

 

 

 

 こうなっていくのが嫌だった。

シャルリーエブドの事件からずっと、こうなるのが嫌だった。

長谷川さんみたいな人が増えるときっとそのうち、

日本でもフランスみたいに、本能で反発を抑えきれない人たちが言葉の次の暴力を選ぶ日がくる。

 

 

 

 

 

この波を止めたい。

殺したいといったり死ねといったり嘘の銃を向けたり誰かの信じるものを冒涜することでではなくて、

「私はその考えは嫌いだ。だけどそう思う人がいるのはわかる」

といつも言っていられる、「文明人」でいたい。

マギー四郎さながら銃から花を出し、石川五エ門さながら無益な殺生をせず、歌丸さんさながら「バカだねぇ」といって笑っていたい。

 

 

 

 

 

そう思いながらも、仕事で嫌いな人相手に嫌な想いをした帰り道。

「死ね!」という私の小さなつぶやきが、誰もいない夜の空気にしんと溶け入るのでした。

未熟だな。

 

でも長谷川さん、そんな私もあなたのことは、嫌いだよ。

好きではないだけで、存在してくれてかまわない。殺さないよ。

自分の子供を「息子氏」「ベビたん」と呼ぶやつとは絶対仲良くなれない。

Facebookでやたら見かける「息子氏」に腹が立って仕方ない。

身内に尊敬の「氏」つけるとかありえんでしょ?「父氏」て言うんか?お前は?
さらには息子の「たん」づけ。「あたし、言えないけど息子をアイドル並みに溺愛してます!」に聞こえるんだけど、正解?ひいては「ベビたん」てなに?絶対バックにこっそり子供の名前書いた蛍光ウチワ持ってるよね?

いや、いい。そう呼んでくれてもいっこうにかまわない。
けど、きっとあなたと仲良くはなれない。仲良くなりたくはない。少なくとも私の語感センサーが勝手にそう受け取ってしまう。

同様に嫁、妻を「奥さん」と呼ぶ男も、
夫を「オット氏」と呼ぶ女も嫌いだ。
正しくないからだ。正しい由緒ある日本語をねじまげてでも自分はこの人に対してこんな絶妙な愛すべき感覚だみたいなどうでもいい自己顕示欲丸出しの自己主張をこっそりしてくるその一瞬の単語選びがマジでセンスなくて嫌いだ。

先祖代々てめえのその薄っぺらい感覚で言い表された程度の愛情なんぞとっくのとうにどの人類もそれはそれは美しい形容詞で言い表して来てるに違いないのだよ。
そんなにだだもれたいほどの愛情と尊敬を身内に示したいならせめて正しい呼称に麗しい形容詞を添えて頂ければいい。たとえば

愛すべき息子
敬愛する妻
大好きな夫

でいい。
謙遜してんだか尊敬してんだか寵愛してんだかわけわからんごちゃまぜな正しくない日本語で愛情をだだもれさせようとするめんどくさい遠回しなノロケほどダサいもんはない。とにかくダサくてキモいのだ。嫌いだ。嫌いなのだ。



勝手に想像するに、あの気持ち悪い呼称が蔓延してしまった現象は日本人が愛情を表現する能力が極めて低いからだと思う。
ガイジンなんて平気で
My loving son
My dear wife
My beloved husband
とか、愛する、愛する、愛するってもう普通に空気を吸うように言ってしまう。
それに比べて日本人は愛する、大好きな、などとはおいそれと言えない文化をはぐくんできたがゆえに、
(いやそれ自体は奥ゆかしさという素晴らしい文化なのだが、その反面、)
あいつらのように。正しい謙譲の呼称にひっそりと「愛」を潜ませるやつらがうじゃうじゃ出て来てしまったのだと思う。


 


いやいやいやいや
あなたのその愛情表現奥ゆかしさのレベル越えてっから!
見せブラはエロいけど、あんたのやつはワカメちゃんのはみ出しパンツくらい見え見えでダサいから!
あー例えが奥ゆかしくなくてごめんね!!!





とにかく、私は嫌いです。
いつも投稿、うえっ。て思ってみてます。

#nomorewar and #nomoredisaster in #japan。

しごとでいろんなキャンペーンのことを考えるようになって、ふと我に返った。

 
 
 
うっわ、どうしよ、
くっそ、
どーでもいい。
 
 
 
 
ターゲットは女?何歳?子持ち?
その人たちになにしてもらうの?
どうやってバズらすの?
それによって私たちはどんな利益を得るの?
その次は何を狙うの?
 
 
 
 
うわああ、
ほんと、やばい、
どーでもいい。
 
 
 
 
しょうがないんだよ、私みたいな出来ない子には時々来るんだ、
セグメントした一部の誰かのために、
お金の使い道を考えて、
つまり、それにかまけてそれ以外の人のための幸せを考える必要が無くなるときの、
この、空虚な感覚。
 
 
 
つまり、
なんかよく顔も見えない、
F1だかF2だかって意味不明の上顧客のために、
悩んで悩んで、頑張って、
 
いつ自分の上にミサイル落っこってきたり、
電車の隣の人が自爆テロしたり、
家族が刺されたり、
子供が津波にのまれたり、
 
するかもしれない、
少なくともないと断言はできない、
そんな世の中で、もし明日それらが起こったら、
 
そのとき私は、後悔せずにいられるだろうか?
ということ。
 
 
人間みんなが憎みあわないような世界を作ることを早々に諦めて、
顔の見えない、F子さんたちのためだけに頑張ってた毎日を。
こっちに向けられてるたくさんの憎しみの視線を無視して、
にこやかに笑ってお金をくれるF子さんたちだけに迎合してた毎日を。
 
 
 
 
 
 
ああ、どうでもいい。F子、おまえは、どうでもいい。
地球がやばい。世界がやばい。
F子。すまんが、どうでもいいぞ。
 
 
 
 
 
会議中に止まらなくなる。そうなるとしばらく戻ってこれない。
まったく違うキャンペーンの妄想が始まる。(件名。)
 
 
 
 
 
 
私はこの仕事がむいてない。
というかそもそも、仕事がむいてない。

 

トカトントン

トカトントン